発信者未満

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かんげき

 ふと、「はなのけいじ」と入力したら「鼻の掲示と変換されました。これは恐らく、京都府京都市の豊国神社近くに存在する「鼻塚」のことに違いありません。

耳塚とは 朝鮮人からそぎ落とした耳や鼻を供養 | 京都新聞 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/319

 こんな反日的な予測変換を許容することはできません。祖国を愛する普通の日本人として、今後は富士通Japanistに切り替えさせていただきます。

富士通の「親指シフトキーボード」が2021年5月をもって終息 関連ソフトも販売終了へ | https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/2005/19/news077.html

どこもかしこも反日だらけだな



 花の慶次といえば、パチンコかぶき者、前田慶次の生涯を描いた大人気漫画ですね。ゲームやラジオドラマ、パチンコと多方面にメディア展開する人気作品です。彼のような派手な格好をしたかぶき者の動きを取り入れた踊りを、阿国という女性がかぶき踊として創始しました。ようやく本題の歌舞伎の話にたどり着きましたね。男の話は長い(森喜子)。
 そんな歌舞伎を観る機会がありまして、銀座の歌舞伎座へ向かいました。演目は三国志。正確には『新・三国志関羽です。



 三月の演目は他に江戸時代のなんか人情物みたいな奴と、川中島の戦い石川五右衛門があったのですが、江戸時代のドラマを流されても…って感じだし、後ろの2つは夜の演目だったので、午前中に開演する三国志を選びました。
 ちなみに、三 国 志 は 全 く 分 か り ま せ ん ! 関羽って誰?劉備は聞いた事あるけど、張飛に至っては初めて聞きました。桃園の誓いって、三好長逸三好宗渭、石成友通の3人の誓いじゃなかったんですか?
 そんな不安もあり、会場ではセリフの合間にイヤホンから解説が流れる音声ガイドに加えて、筋書きを購入し、万全の態勢で席に着きました。ふと周りに目を向けると、見渡すばかりの白髪ハゲ白髪ハゲ、ババアとジジイ。戦慄する。歌舞伎といえば老人の娯楽のイメージがあるが、その通りに、会場には年金強奪者しかいない。私も祖母と来ていたので、変わらないんですが…。
 全く知らん時代を描いた年配向けとされる娯楽を、果たして令和のシティ・ボーイたる私が見て本当に面白いと思えるのか…。開演を控え、暗くなる劇場はまるで私の心のよう。
 幕が上がり、初めに現れたのは語り部「ら・こんちゅう」。あとから調べたところ、三国志演義の著者、羅貫中の子孫を演じる市川中車張飛の役も演じている)が昆虫好きだからこの脚本になったそうで…というところまで調べて、市川中車香川照之氏だという事を初めて知りました。関羽役を務める主演は市川猿之助だし、なんか銀行員多いっすね。「ら・こんちゅう」の語りで、後漢末期の様相が語られます。
 助かりました。本当に三国志の時代背景が分からなかったので。黄巾の乱や、宦官の専横、董卓呂布の台頭から曹操の登場までが分かりやすく解説され、胸をなでおろしたところで、主演の関羽劉備張飛が登場し、物語が始まります。あらすじを書いていたら日が暮れてしますので、これ以上は書かないことにしましょう。


 

  感想

 主演の登場、ハケ方は特別仕様になっていて、床がせりあがって出てきたり、花道から登場したりと、見ていて飽きることはありません。セリフも時代がかったものは少なく、内容をはっきりと理解できました。呉国太や香渓といった女性たちの活躍も描かれますが、女形ってすごいですね。彼女たちが彼らであることを全く感じさせませんでした。デカいけど。
 2時間の公演はあっという間にフィナーレを迎えました。殺陣あり、笑いあり、涙ありの演劇のクライマックスは、猿之助による宙乗り。桃の花びらを舞い散らせながら、拍手と共に去っていきました。
 非常に短い2時間。飽きが来ることも眠くなることもなく、最後まで楽しみながら観ることができました。歴史ものだからというのもあるでしょう。また鑑賞の機会が訪れることを、心から待ち望んでいます。

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(ここからは余談です)

 中国史には全く詳しくないので、『新・三国志』で描かれた内容はどこからどこまでが史実で、創作なのだろう?と疑問に思いました。特に、蜀の建国と主役の3人との関わりがよく分からなかったので、史学科にあるまじきWikipediaでペラペラ眺めてみました。…うん。よく分からない。でも、一介の素浪人みたいなのが国を建国したわけではないという事だけはわかりました。もっと勉強が必要ですね。こんなのでアジア史の単位をどうやって取ったのか、今となっては皆目見当もつかない。

 購入した筋書きの本には、『新・三国志』だけでなく『信州川中島合戦』や『石川五右衛門』のあらすじも書かれており、なんと『石川五右衛門』には三好長慶が登場するのです。筋書きを眺めていたところ、足利義輝の下に参上した武士、管領の三好修理大夫長慶」として登場しました。ちなみに三好長慶管領を務めたことはありません。当時管領の役職は形骸化しており、彼の元主君であった細川晴元や氏綱も、管領に就任した事実はないという研究もあります。というか、公式には「三管領家」と呼ばれる家柄の人間でなくては管領になれず、三好家はその中には入っていません。
 いや、歴史を基にした創作物にけちをつけるのは野暮なんですが、わざわざこんなことを書いたのは、浜野卓也氏の歴史小説、『黒田官兵衛』にも、似たような記述が出てくるからです。そこでは1568年当時の畿内情勢として、「表向きは一応、三好長治管領を称して一一ヵ国を領有している」という記述がなされています。しかし、三好長治は当時はまだ15歳で、三好家の当主は三好義継でした。前述の通り管領職を三好家の人間が称したことは無く、「一一ヵ国を領有」というのも、領有の定義がなかなか難しいですが、ここで想定される11カ国(山城、大和、河内、摂津、和泉、阿波、讃岐、伊予、土佐、丹波、淡路かな?播磨は「大きな侵攻がない」とあるから違うはず)のうち、少なくとも丹波は内藤宗勝(松永長頼)の戦死によって奪われていますし、畿内五か国(これも完全支配かは怪しい)と阿波、讃岐の二か国以外は、「影響力を行使できる」程度でした。これを領有というのは難しいでしょう。つまり、上記の説明はムチャクチャなのです。
 三好長治を当主としたのは、当時義継は松永久秀と共に三好三人衆や阿波三好家と対立していたので、阿波三好氏の当主であった長治が一般的に当主と認められていたと解釈した可能性も考えられますが、そこまで三好家に詳しければ「三好長治が管領を称して」なんて記述にはならないはずです。
 余談の方が明らかに長くなってしまいましたが、何故、三好氏の当主が管領と解釈されたのか、という疑問が発生したという事です。桃園の誓いは三好三人衆じゃなかったのかという謎のつまらないボケは、ここに繋がっていたんです。解決したら、また記事にしようと思います。